SNSで華やかに活躍している、ある女性税理士がいる。
私はその人を、ひそかに「美人風税理士」と呼んでいた。
「美人税理士」ではない。「美人風税理士」である。
その人は、美人の文法を実によく心得ている。
写真の撮られ方、表情、服装、ポーズ。美人らしく見せるためのさまざまな技法を駆使して、SNSの世界でキラキラと輝いている。
私はその姿を、少々意地悪な目で眺めていた。
美人かどうかはさておき、美人の文法を使いこなしていることは確かである。
そこで、私の中では「美人風税理士」という分類が定着した。
もっとも、本人がどう思っているのかは知らない。私が勝手にそう呼んでいるだけの話である。
ひるがえって、我が身を見れば
最近、私は税理士の世界を、文化人類学のレンズを通して眺めることに夢中になっている。
大学院で文化人類学を学んだことがある。昔覚えた理論や考え方を引っ張り出してみると、身の回りに面白いものが次々と見つかる。
例えば、税務署長の講演会。
税理士会などの関係団体が集まり、新任の税務署長の話を聞く。その仕組みを観察しているうちに、神社の祭礼に似ていることに気づいた。
税務署長を宮司に、関係団体を氏子に見立ててみると、なかなか興味深い構造が浮かび上がってくる。
税の作文もそうである。
入賞作品を読み比べているうちに、私は「恩返し構文」なるものを発見した。
税金によって社会から受けた恩恵に感謝し、やがて自分も納税によって社会に恩返しをする。
そんな物語の型が、繰り返し現れるのである。
こうなると、もう止まらない。
税理士会の行事も、国税庁の広報も、税の作文も、何もかもが観察対象になる。
おや。
ひるがえって我が身を見れば、私も「文化人類学者風税理士」ではないか。
人のことを「美人風税理士」などと呼んでいたら、自分も似たようなことをしていたのである。
自分につけたあだ名
文化人類学者になろうと、大学院の博士課程まで進んだことがある。
結局、文化人類学者にはならず、今は税理士をしている。
なれなかったのか、ならなかったのか。自分でもよくわからない。
そんな人間が、昔学んだ理論を引っ張り出して、税理士の世界をあれこれ考察している。
我ながら少し滑稽である。
これは面白い。
そこで、しばらく自分のことを「文化人類学者風税理士」と呼んでいた。
ところが、使っているうちに、どうもしっくりこなくなってきた。
文化人類学者には、文化人類学者の作法がある。先行研究を踏まえ、学問の枠組みの中で考えなければならない。
しかし、今の私は、もっと自由に考えていたい。
だいいち、名前が長い。
考えてみれば、人に勝手なあだ名をつけたばかりか、今度は自分にもあだ名をつけているのである。
しかも、今度はそのあだ名を付け替えようとしている。
私は、何をしているのだろう。
日曜大工ならぬ
最近、ブリコラージュという言葉について、改めて考える機会があった。
フランス語では日曜大工などを意味する言葉である。
文化人類学では、レヴィ=ストロースが『野生の思考』で、手元にある材料や道具を組み合わせ、何かを作り出す思考のあり方として論じたことで知られている。
そういえば、私がしていることも、これに似ている。
仕事で出会った出来事、税理士会の行事、国税庁の広報。
材料は、身の回りにいくらでも転がっている。
道具は、昔学んだ文化人類学の理論や考え方である。
日曜大工の人が手元の材料と道具で棚を作るように、私は身の回りの出来事から勝手に仮説を作っている。
ときには、二十五年前の租税教育アニメと新作を見比べ、四半世紀の間に何が変わり、何が変わらなかったのかを調べたりもする。
そうして作った仮説を、エッセイに仕立てることもある。
だったら、日曜大工ならぬ「日曜研究者」でいいではないか。
本業は税理士。研究は趣味である。
研究計画もなければ、研究費もない。誰から頼まれたわけでもない。
ただ、面白そうなものを見つけると、つい調べたり、考えたりしてしまう。
こうして私は、「文化人類学者風税理士」から「日曜研究者」になった。
この呼び名が、なかなか気に入っている。
もっとも、研究する曜日は特に決めていない。

